ここんところ、ずっと読んでしまっているコンテンツなんですが、おもしろいよ、読み物として。でもこれだけの量を漫画にしたらすごいページ数になっちゃうなぁとか思ったり。
ちょっとまだまとめられていないので、詳しくはきっとそのうち。
ここでいう素人とは、表現に用いたい手段を使うことが下手な人のこと、つまりは漫画を描きたいけど漫画をかけない人、音楽を作りたいけど、楽器の使え無い人、楽譜の理解できない人のこと。
自分用のメモ。何が書きたいかは、こみっくパーティーに再び毒された体で、上で取り上げた「テッサ先生の補習授業」を読んでて考えた事。研究ともかかわって来る話。
書きたい話の筋は二つ。一つ目は、何かを創り出す上で、創り出す行為そのものが、創り出す内容に影響を与えることについて。
絵を描く時、大抵は何か描きたい目的が存在する。そしてその目的に向かって絵を描くが、その過程で漠然としていたイメージがどんどんと固まっていき、最終的には頭の中の描きたいモノを具現化する。この最終的に具現化されたモノは当初頭の中にあったイメージとは往々にして異なるものだ。つまり、絵を描く過程が創作内容に影響を及ぼしているといえる(書いててなんか飛躍してる感が...)。
ということは、仮に人が頭の中のイメージを絵にする機械を作ることができたとする。しかし、先ほど描く過程が描く内容に影響を与えると言った、だとしたら、絵を描く機械は使う人が求める絵を描くことができるのか?
二つ目は、素人は、描ける事を求めているのか、描いた物を求めているのかということ。
同人誌に代表されるファンジン(またはパロディ)は描かれる内容には大きく二つがあると思う。一つは、パロディ対象そのものを表現するということ、これはキャラクタ駆動式(勝手に考えた言葉、そう言うかどうかは知らない)の考えで、(この世界観において)このキャラクタ達にこういうことをさせたい、こういうことをするんじゃないかということを表現すること。もう一つは、目的駆動式(これも勝手に考えた言葉)、伝えたい目的の為にパロディを利用するということ。
「補習授業」シリーズは、もちろん後者の形で作られたパロディだと思う。この時、パロディを用いることで、世界観や常識、暗黙の了解等々の説明を一気に省く事ができる。つまり、(物語)文法としてパロディを行う。
さらにシステマチックな言葉だとテンプレートとも言えるかもしれない。このテンプレートに沿って描かれたモノが"描かれたモノ"となる。先の「テッサ先生の補習授業」でも、絵として表れるのは各キャラクタの喜怒哀楽を示したアイコンだけだ。これが作ることができたら、目的駆動方の表現を求める人にとってはある程度十分なシステムになるのかもしれない。
ここで言いたいのは、これを漫画なり対話の形で表現したいと考えた時、求められるのは、それを表現するに足るだけの表現力であって、これはかなりルールすることができると考えられるということ。手塚治虫が漫画を漫画文法として漫画入門をまとめたように。ならば、目的駆動式の人間にとっては、絵を描くことが求められるのではなくて、文法を使いこなす、つまり言語を使う能力が求められるということになるのではないか。
しかし、素人が求めているのはほんとに文法としての漫画表現なのか。文章を書くときも、論文なら綺麗さはほとんど価値を持たないが、創作として文章を書くなら文章の、言葉の綺麗さ、格好よさも素人は追求したいと考えるだろう(自分の主観)。それと同様で、漫画を描くうえでも、絵的な綺麗さ、格好よさを求めるだろう。そうなると、文法ではすまされない。表現を考えないといけない。
とかそういう事をとりとめも無く考えていたけども、自分の大学院での研究と関係のある話なので、ちゃんと考えをまとめておきたい。