peercastを使っているとき、日本語タイトルが化ける。原因は当然、文字エンコードを考慮せずUTF8で解釈しようとしているから。mp3の方はEncoding patchにより、元エンコードを指定できる。Input/mpg123においては、Input/mpg123.cの604行-607行で次のようにしている。
if (mpg123_cfg.title_encoding_enabled) { if (!g_utf8_validate(title, -1, NULL)) title = g_convert(title, strlen(title), "UTF-8", mpg123_cfg.title_encoding, NULL, NULL, NULL); }
ここで、mpg123_cfg.title_encodingにconfigure.cから指定されたエンコードが入り、「指定されたエンコード」→「UTF-8」へ変換される。
Input/mpg123とInput/vorbisはファイル構成等が似ているので、Input/vorbisへのエンコード変換はInput/mpg123におけるEncoding Patchの情報を元に簡単に実装できると思われる。
RYOKO日記 04/12/18(はてなダイアリー)のyaneurao氏のコメントより。CGに使われる技術は未だによくわからん。というより、線形代数をはじめとした数学が苦手というのが最大のネックか...(泣。
/.-Jでの議論はphotoshopとの互換性やCMYKの話か。
Googleで、「gimp キーバインド」で調べていたら、gimpマニュアルのページで、photoshopキーバインドに変更する方法を発見、以下のファイルを.gimp以下にコピーするとできるらしい「~/gimp-cvs/etc/gimp/2.0/ps-menurc 」もしくは、「/etc/gimp/2.0/ps-menurc」
bmp/Input/mpg123の中身を読んでいて、mp3のデコード部分がアセンブラだったので、ちょっと調べてみた。結局読んではいないけども、AMD64を 使っている人間として(?)、読んでおきたいと思ったのでメモ。
最後のInterfaceのコラムは前にリンク張った覚えがあるんですが、まぁいいや。
はてなダイアリーつながり。expressionはmicrosoftのvector-baseのペイントソフト(?)、グラフィックスプログラミングはwindowsでのグラフィックスプログラミング入門、wintabも扱っているし、おもしろそうなので買いたい。
と、思ったらExpression3って、sys3.6.3 04/10/1の日記で紹介されていたやつジャン。あぁ、こういうベクターの扱い方もできるのかー!おもしれー!
よく、男性は問題を解決したがるというけども、それの具体的な話、二つ目のリンクで採り上げられている本はおもしろそうだった。
先日の切込隊長のBLOGでNEETネタをやっていて、NEETがなぜ発生するのかという話をしていて、興味深かった。特に印象に残ったのは、成功体験の乏しさが積極性を無くさせるという話、これはNEETだけでなく様々な人に言える事だと思う。
成功体験、つまりうまくいったり、一通りできたという実感が、その活動を継続する原動力となる。逆にこの成功体験に乏しければ、継続する事が苦痛になっていく。なぜ印象に残ったかというと、自分にとって研究活動がまさにそれだからです。大学院からこっちに来て、ずっと研究のモチベーションをこねくりまわしている間に周りは研究が進んでいく。自分だけ取り残されている感覚、焦る、しかし進め方が正しいかどうかわからない、今の悩みに価値があるかどうかわからない、この辺の判断は一通り(卒業研究など)をこなすことでわかるんだろうけど、それがなかった。そうやって成功体験の無いまま、研究に対するモチベーションは下がり続け、ついには0へと墜ちる。
幸い、自分の場合それ以外の分野で成功体験がある事が引き籠もらせたり、真の鬱へ陥らせない防壁となっている。おそらく、研究しか無く、この状態になっていたら、引きこもりになっていただろうなぁ。
研究室の雰囲気が良かったので、研究室に適応できなくて研究室引き籠もりになることは無かったが、自分の場合、研究に対する姿勢に悩んで、一時的に研究室引き籠もりに近い状態になった。なぜそうなったかは、大学時代に遊びすぎた事が原因なんですが...。しかも、修士1年生っていうのは”それほど”切迫した状況に無いため、逃げ道がとても多い、そのため、学部生並にズルズルと、講義に出ない、出られない、研究室に行けない、行くのが気まずいとなっていく。少し気を抜くと簡単にそうなる。
自分もNEETや引き籠もりには優しく接するだろう。弱い自分を映しているから。
しかしこの人も筑波の大学院生なのか、世の中は狭いのぅ。
犠牲とは偽りの愛、傲慢の愛である。確かに、誰かの為に自分は犠牲になったんだという思いは傲慢以外の何者でもないと思う。しかし、自分の時間を見返り無し(多少の下心は無視)で他人に提供した場合(特に他人から求められて)、自分は他人に対して犠牲になったんだと思えることはあるだろう。もちろん、”犠牲”なんて大げさな言葉を使うようなものではありませんが。
多分そういう時に大切なのは、そういう気持ちを他人に知られないようにする事だと思います。たとえ、犠牲によって自分自身が不利益を被ろうとも、その気持ちを他人に伝えなければ、少なくとも傲慢とまではならないのでは無いかと思います。まぁ、そう思っただけ。
OPC Diaryは他の記事も為になるので、読ませてもらっている。Microsoft関係の先進的な情報を得る事ができるので、重宝しています。